真岡市の建築屋の思うこと④~食の話
こんにちは。
今日も暑くなりそうですね!
水分補給をこころがけ、熱中症にならないように過ごしましょう!
さて、今日は久しぶりの蕎麦田のブログです。
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食い物の話 1
ひさびさ又、文章を書く。能がないのか自分にとってこの作業は結構つらいのである。
前回は身体から出た『カグワ』しい香りのする物を処理する場所を書いたが
反応はドウであったか。デ今回から入れるものについて話を進めたい。
生きていることは入れて出す作業を最後までくりかえす。そんな中生きていてつらい時
は沢山ある。人にうらぎられた。耳の奥がかゆい。腰が痛い。肩痛い。カミサンが他の
男と一緒に家を出た。好きな人にふられた。他 --------- のなかで「食い物」がない。
ヒモジイ。と言うつらさはどうであろうか。戦前生まれた人が書いた文にはそのことを
よく目にする。
幸いに自分は戦後≒10年ほどたってから姓を受け、百姓小作の分家ではあったのが、
とりあえずの食い物は家にあった。麦の混じったご飯であり、ふかし芋、その辺で
集めた野菜らしきものテンプラ、肉は時々で庭でチョロチョロしていえる鳥を絞め殺し
夜の卓袱台の上に上がったりもしたが、4足の肉は年に1,2度程度であったであろう。
部落で豚を、羊を、牛をトサツする。すると部落の人たちはメイメイ家から鍋を
持ち出し豚の足だの、股だのを鍋の中に入れ、家で適当に味をつけ口に入れる。
トサツは冬にする。肉は長い保存がきかないのでその時期に、4つ足は量がそれなりに
でるので持っていても腐るのを見るだけなのでそうするのであろうが、部落の人は
ニコニコである。
他の肉は魚はであるがここ栃木は海がない。魚といえば川からである。近くの一番
大きな川(小貝川)で鯉、鮒、マルタ(ウグイ)、他の魚を冬に部落の魚とりの好きな
人たちが集まり船でヤス、網を使い捕る。冬にとるわけは魚がメシを食べていないので
生臭みが少ないことと、動きがニブいので捕まえることが容易であるため。それを炉辺
でカリカリにして、後で油で揚げ味をつけたもの、又鍋で煮付けたものを食べたが、
骨が多く特別旨かったといえる記憶はない。海の魚は(魚以外もある)行商の人が時々
部落に来売り歩いていた。烏賊、ホッケ、鯨、がメインであるが塩ヌキをしなければ
食べられる代物ではない。
小学校は弁当である。オカズは醤油の味付けのご飯の上にノリ、本当の『ノリベン』で
あり、他には昆布の佃煮、ウメボシ、チョットおしゃれで桜デンブがのったもの、時に
白いご飯(だいたいの子供のご飯には麦が混じっていたが)ご飯だけとおもいきや、
小さなふりかけ袋を持ってきた子供がいた。それを見たクラスの子供たち、半月後の
クラスは約半分白いご飯にフリカケと言う具合で、卵焼き、カラアゲ、まして果物など
ご飯に添えてあることはない。卵と肉は今と違い超高級食材であったので病気に
ならなければ食べることは出来なかった。弁当箱はアルミ製の平べったい形か少し深い
形(この深い形のものは当時土肩弁当と言っていた)今のように2段、3段などと言う
弁当箱はズ-トあとの話しである。
学校の給食が始まったのは小学校6年生の後半から中学校終わりまでである。
当時の給食はパンに牛乳、これはきまりでおかずの記憶は、カレ-、ヤキソバ、
ヒジキ、オカラ、他 今の人の見方では『ナニコレ』と言われそうな食い物ばかりでは
あったが、残す子供はいなかった。又学校給食の支払い方法は現金または米でも支払い
ができたのである。(米は1俵単位で年払い。現金は1ケ月約500円程度と記憶して
いる)2年前給食センタ-に勤めていた人(たまたま自分の小、中の同窓生)の家の
増改築の工事の担当をしていたので色々と話を聞いたが、今の子供はひどいときは
3分の1くらい残すときがありふざけていると言っていた。
昔ごはんを残すと目がつぶれると親から、ばあ様から言われたが、今、めしを残す子供
の親は、学校の先生はどう子供に話をしているのか。子供の目は大丈夫であろうか。
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